統合失調症により精神科の診療を受けていた患者が中国に帰省中に自殺した場合において,医師に患者の自殺防止に関する義務違反があるとした高裁の判断に法令委はがあるとした事例
最高裁 平成31年3月12日判決
事件番号 平成30年(受)第269号
主 文
原判決中,上告人敗訴部分を破棄する。
前項の部分につき,被上告人らの控訴を棄却する。
控訴費用及び上告費用は被上告人らの負担とする。
理 由
上告代理人Xほかの上告受理申立て理由第5について
1 本件は,統合失調症により精神科の医師である上告人の診療を受けていた患者(以下「本件患者」という。)が,中国の実家に帰省中に自殺したことについて,本件患者の相続人である被上告人らが,上告人には本件患者の自殺を防止するために必要な措置を講ずべき義務を怠った過失があるなどと主張して,上告人に対し,債務不履行又は不法行為に基づき損害賠償を求める事案である。
2 原審の適法に確定した事実関係等の概要は,次のとおりである。
(1) 被上告人甲は,平成6年9月,本件患者と婚姻し,本件患者との間に被上告人乙及び同丙をもうけた。
(2) 本件患者は,平成10年1月,統合失調症を発症し,その頃,上告人が勤務していた医院を受診し,上告人の診療を受けた。
本件患者は,平成13年6月頃,上告人が東京都Y区内にYクリニック(以下「本件クリニック」という。)を開設したことに伴い,上告人との間で診療契約を締結して本件クリニックに通院し,平成16年4月以降,上告人から抗精神病薬等を処方されるようになった。
(3) 本件患者は,被上告人甲らと共に,平成19年8月頃,長野県Z市に転居した。上記の転居後,本件患者は,自身で本件クリニックを訪れることは少なくなり,主として被上告人甲が本件クリニックを訪れ又は電話をかけるなどして上告人に本件患者の症状を伝え,上告人から抗精神病薬等を処方されるなどしていた。
(4) 本件患者には,平成22年3月,幻聴が現れるようになり,同年8月には,ベルトを持って徘徊するなど自殺企図もみられるようになった。本件患者は,同月〇日,Z大学医学部附属病院(以下「Z大病院」という。)を受診し,医療保護入院となり,自殺企図又は自傷行為が切迫している状態にあるとして隔離された。
本件患者は,同年9月,Z大病院内で,かみそりで左手首を切る行為(以下「本件自傷行為」という。)に及んだこともあったが,同年10月〇日,幻聴等が現れる頻度が減り,希死念慮も現れなくなったことから,Z大病院を退院した。
(5) 本件患者は,平成22年11月から平成23年1月までの間,月1回,本件クリニックを訪れ,上告人との対面による診察を受けた。上告人は,Z大病院で処方されていた抗精神病薬等が多種類かつ多量であったため、その服薬量を減量する必要があると考え,本件患者及び被上告人甲にその旨を説明した。なお,上告人は,被上告人甲から,本件患者が本件自傷行為に及んだことを伝えられていた。
(6) 被上告人甲は,平成23年2月,上告人に対し,本件患者の服薬状況を報告するとともに,この数日間は幻聴がひどくなる頻度が減っており,本件患者がしばらく中国の実家に帰省する旨を電子メールにより伝えた。
本件患者は,同年3月〇日,被上告人甲と共に本件クリニックを訪れ,上告人との対面による診察を受け,翌〇日,1人で中国の実家に帰省した。上告人は,上記診察の際,本件患者及び被上告人甲に対し,環境の変化があるので,帰省後1箇月間は抗精神病薬の服薬量を維持することを指示し,その後は経過を見て減量する方針とした。
(7) 本件患者は,平成23年4月以降,抗精神病薬の服薬量を漸次減量したが,幻聴が悪化し,被上告人甲に対し,マンションの6階にある実家から飛び降りたいという衝動があるなどと述べるようになった。
被上告人甲は,同月〇日,中国へ行き,本件患者の様子を見るなどして,同年5月〇日,日本に帰国した。被上告人甲は,同月〇日,上告人に対し,本件患者の症状は少し良くなったようにも思えるが,日によって幻聴がひどくなることがある旨の電子メールを送信した。
上告人は,同月〇日,被上告人甲に対し,今後2週間程度は抗精神病薬を減量し,その後しばらく様子を見た方がよい旨の電子メールを返信した。
(8) 本件患者は,平成23年5月〇日頃から幻聴が悪化し,希死念慮が現れるようになった。
被上告人甲は,同月〇日,本件患者に対し,抗精神病薬の服薬量を増量させるなどし,上告人に対し,「ここ数日,夕方になると,幻聴が激しくなり,また,眼球上転もでているようです。今日は希死念慮がかなりつよくでていて,『これからは3人で生きて下さい』との言葉もありました。危険なので,義母に監視を頼み,セレネースを11mgに戻すようにいいました。」,「減薬の先に何があるのか,その見通しを示して下さい。」などの記載が含まれる電子メール(以下「本件電子メール」という。)を送信した。
上告人は,同月〇日頃,本件電子メールを読み,被上告人甲に対し,「困難な場合には、入院で薬の調整をして頂くことを考える必要があるかも知れません。」などと記載した電子メールを返信した。
(9) 本件患者は,平成23年6月〇日,幻聴を訴え,同月〇日,マンションの6階にある実家から飛び降りて自殺した。
なお,被上告人甲が,本件電子メール送信以降,上告人に対し,本件患者につき,自殺の切迫した危険性をうかがわせる言動があったことを伝えたとはうかがわれない。
3 原審は,上記事実関係等の下において,要旨次のとおり判断し,被上告人らの不法行為に基づく損害賠償請求を一部認容した。
本件患者は,自殺企図歴のある統合失調症患者であり,抗精神病薬の減量によりその症状が悪化する可能性があるにもかかわらず,中国の実家に帰省しており,そのことによって,上告人は,その病状を直接観察すること等ができない状況となった。上告人は,本件患者が上記状況にあることを認識した上で抗精神病薬の服薬量の減量を治療方針としてその診療を継続しており,遅くとも本件電子メールの内容を知った平成23年5月〇日の時点において,本件患者の自殺の具体的な危険性を認識したのであるから,その自殺を防止するために必要な措置を講ずべき義務があり,これを怠った過失がある。
4 しかしながら,原審の上記判断は是認することができない。その理由は,次のとおりである。
統合失調症に罹患していた本件患者は,平成22年8月から9月までの間,本件自傷行為等に及んだことがあったが,症状が回復し,Z大病院退院後は,上告人の診察を受け,その指示を受けて抗精神病薬の服薬量を漸次減量していた。そして,本件患者は、平成23年3月〇日に中国の実家に帰省した後,同年5月〇日までの間に,希死念慮を表明したことはあったものの,自殺を図るため具体的な行動に及んだことはうかがわれない。
上告人は,本件患者が中国の実家に帰省した同年3月〇日以降は,本件患者を直接診察することができず,その言動を直接観察する機会もなく,被上告人甲からの電話や電子メールによって本件患者の状況を伝えられたのみであった。上告人は,同年5月〇日頃,本件患者に希死念慮が強く出ていて危険である旨を記載した部分がある本件電子メールを読んだものの,本件患者の具体的な言動としては,本件患者が「これからは3人で生きて下さい」と発言した旨が伝えられたにすぎない。
以上によれば,上告人が,抗精神病薬の服薬量の減量を治療方針として本件患者の診療を継続し,これにより本件患者の症状が悪化する可能性があることを認識していたことを考慮したとしても,被上告人甲からの本件電子メールの内容を認識したことをもって,本件患者の自殺を具体的に予見することができたとはいえない。したがって,上告人に,本件患者の自殺を防止するために必要な措置を講ずべき義務があったとはいえないというべきである。
5 これと異なり,上告人に上記義務があり,これを怠った過失があるとした原審の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨は理由があり,原判決中上告人敗訴部分は破棄を免れない。そして,以上説示したところによれば,上告人は,被上告人らに対し,不法行為に基づく損害賠償責任を負わず,また,債務不履行に基づく損害賠償責任も負わないというべきである。そうすると,被上告人らの請求はいずれも理由がなく,これを棄却した第1審判決は結論において是認することができるから,上記部分に関する被上告人らの控訴を棄却すべきである。
よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 岡部喜代子 裁判官 山崎敏充 裁判官 戸倉三郎 裁判官 林 景一 裁判官 宮崎裕子)