抗がん剤を過激投与したため、その副作用の過失が認められた事案
さいたま地裁 平成15年3月20日
平成14年(わ)第1809号
主 文
被告人X1を罰金20万円に,被告人X2を罰金30万円に,被告人X3を禁錮2年に各処する。
罰金を完納することができないときは,金5000円を1日に換算した期間,当該被告人を労役場に留置する。
被告人X3に対し,この裁判確定の日から3年間その刑の執行を猶予する。
理 由
(罪となるべき事実)
被告人X1は,〇〇県〇〇医療センター〇〇長として,同科における診療全般を統括し,同科の医師らを指導監督する業務に,被告人X2は,同大学助手として,被告人X3は,同科病院助手として,患者の診療の業務にそれぞれ従事していた者であるが,被告人乙野をリーダー,被告人丙野を主治医として,研修医丁野三郎を加え,医療チームを組み,右顎下部の滑膜肉腫に罹患した甲山花子に対し,抗がん剤である硫酸ビンクリスチン,アクチノマイシンD及びシクロホスファミドの3剤を投与する化学療法(VAC療法)を実施するに当たり,
1 被告人丙野は,滑膜肉腫やVAC療法の臨床経験がなく,抗がん剤は細胞を破壊する作用を有するもので,その投与は患者の身体に対する高度な侵襲であることから,その用法,用量を誤ると患者の命にも関わる事態となり,また,強い副作用があることから,これを用いるに当たっては,当該療法についての文献,医薬品添付文書等を調査して,その内容を十分理解し,副作用についても,その発現の仕方やこれに対する適切な対応を十分把握して治療に臨むべき業務上の注意義務があるのに,これを怠り,同療法や硫酸ビンクリスチンについての文献,医薬品添付文書の精査をせず,同療法のプロトコールが週単位で記載されているのを日単位と読み間違え,2ミリグラムを限度に週1回の間隔で投与すべき硫酸ビンクリスチンを12日間連日投与するという誤った治療計画を立て,それに従って研修医らに注射を指示し,平成12年9月27日から同年10月3日までの間,同センターにおいて,入院中の甲山に対し,1日当たり2ミリグラムの硫酸ビンクリスチンを7日間にわたって連日投与し,更には,投与開始4,5日後には,同女に高度な副作用が出始めていだのに,これに対して適切な対応をとらなかった過失
2 被告人乙野は,リーダーとして,被告人丙野らを指導する役割を担っていたところ,滑膜肉腫やVAC療法の臨床経験がなく,抗がん剤は細胞を破壊する作用を有するもので,その投与は患者の身体に対する高度な侵襲であることから,その用法,用量を誤ると患者の命にも関わる事態となり,また,強い副作用があることから,当該療法についての文献,医薬品添付文書等の調査を通じて,その内容を十分理解し,副作用についても,その発現の仕方やこれに対する適切な対応を十分把握した上,主治医の被告人丙野が立てた治療計画について,その適否を具体的に検証し,副作用に対する対応についても,同被告人を適切に指導すべき業務上の注意義務があるのに,これを怠り,同年9月18日か19日ころ,被告人丙野が立てた治療計画について了承を求められた際,同被告人が依拠した上記プロトコールの写を示されながら,それが週単位で記載されているのを見落とし,同被告人が立てた誤った治療計画をそのまま是認し,副作用に対する対応についても被告人丙野を適切に指導しなかった過失
3 被告人甲野は,抗がん剤は細胞を破壊する作用を有するもので,その投与は患者の身体に対する高度な侵襲であることから,その用法,用量を誤ると患者の命にも関わる事態となり,また,強い副作用があることから,化学療法について十分な知識経験を有する医師の指導の下になされることが要請されるところ,当時同科には滑膜肉腫やVAC療法の臨床経験を有する医師がいなかったのであるから,VAC療法の実施を一般的な診療と同様に主治医の被告人丙野やチームリーダーたる同乙野に任せることなく,同療法についての文献,医薬品添付文書等の調査を通じて,その内容を十分理解し,副作用についても,その発現の仕方やこれに対する適切な対応を十分把握した上,主治医の被告人丙野が立てた治療計画について,その適否を具体的に検証し,同被告人の投与薬剤の副作用についての知識を確認するなどして,副作用に対する対応についても適切に指導すべき業務上の注意義務があるのに,これを怠り,VAC療法を実施することを了承しただけで,被告人丙野の具体的な治療計画を確認しなかったため,それが硫酸ビンクリスチンを12日間連日投与するという誤ったものであることを見逃し,副作用に対する対応についても適切な指導をしなかった過失の競合により,被告人丙野らにおいて,同年9月27日から同年10月3日までの間,同センターにおいて,同女に対し,連日硫酸ビンクリスチンを投与して多臓器不全に陥らせ,よって,同月7日午後1時35分ころ,同所において,同女を硫酸ビンクリスチンの過剰投与の副作用による多臓器不全により死亡させたものである。
(証拠の標目)〈省略〉
(補足説明)
第1 被告人甲野の弁護人は,〇〇センター〇〇の同被告人の業務内容,量等に照らすと,チーム医療の態勢下で主治医らの行う個別具体的治療行為について,逐一監督することは不可能であり,また,被告人丙野の本件過失行為を予見することは不可能であるから,本件医療過誤について業務上過失致死罪は成立しないと主張するので,以下,有罪と認めた理由について補足的に説明することとする。
第2 事実関係
関係各証拠によれば,以下の各事実が認められる。
1 被告人甲野は,昭和〇〇年月,○○大学医学部を卒業し,同37年6月,医師免許を取得し,同大学医学部耳鼻咽喉科助手,△△大学医学部耳鼻咽喉科講師兼外来医長,同助教授等を経て,同60年7月,〇長兼教授に就任した。
被告人乙野は,平成〇月,××部を卒業し,同年5月,医師免許を取得し,〇〇センターで2年間の研修後,〇〇助手を経て,同11年から〇〇助手として同科に勤務していた。
被告人丙野は,平成〇年〇月,同大学を卒業し,同年4月,医師免許を取得し,〇〇で2年間の研修後,〇〇として1年間勤務し,その後1年間他の病院に派遣され,同〇〇年〇月から〇〇として勤務していた。
2 〇〇〇科における診療は,日本耳鼻咽喉科学会が実施する耳鼻咽喉科専門医の試験に合格した医師をリーダーとして,若手医師,研修医各1名がチームを組んで当たるという態勢が採られていた。リーダーは,チームの若手医師らを指導する役割を担い,若手医師が主治医の場合であっても,リーダーの了承なしに治療方針を決定することはできないこととなっていた。
同科では,原則として毎週木曜日,被告人甲野による入院患者の回診(〇〇回診)が行われ,その後医局で医局会議(カンファレンス)が開かれていた。
3 被害者は,平成〇〇年〇月〇日,〇〇で,被告人丙野の執刀により,右顎下部腫瘍の摘出手術を受けた。術前,術後の経過に異常はなく,同月29日,退院した。
摘出した腫瘍の病理組織検査が行われ,同年9月6日,右顎下部の滑膜肉腫で,再発の危険性はかなりあるという検査結果が出た。滑膜肉腫は,四肢大関節近傍に好発する悪性軟部腫瘍であり,頭頸部領域に発生することは稀で,予後不良の傾向が高く,多くは肺に転移して死に至る難病で,確立された治療方法はなかった。
同月7日,上記検査結果がカンファレンスで報告されたが,同科には,滑膜肉腫の臨床経験のある医師はいなかった。
4 被害者の治療は,被告人乙野をリーダーに,被告人丙野を主治医とし,これに研修医の丁野三郎が加わって3名が当たることになった。
同月11日,被害者は父親の希望で,〇〇へ転医することとなったが,直ちに治療を受けることができなかったため,同月18日,〇〇科で治療を受けることになり,同月25日から入院することとなった。
同月18日か19日ころ,被告人丙野は,同科病院助手の乙山から,VAC療法がいい旨言われ,同療法を実施すればよいものと考えた。
被告人丙野は,本センターの図書館で文献を調べ,「新図説臨床整形外科講座13 骨・軟部腫瘍および類似疾患」の277頁にVAC療法のプロトコールを見付け,上記プロトコールを熟読せずに,そこに記載された「week」の文字を見落とし,同プロトコールが週単位で記載されているのを日単位と間違え,同プロトコールは硫酸ビンクリスチンにつき2ミリグラムを12日間連日投与することを示しているものと誤解した。
そのころ,被告人丙野は,同乙野に,上記プロトコールの写を渡し,自ら誤解したところに基づき,同プロトコールどおり硫酸ビンクリスチン2ミリグラムを12日問連日投与するなどの治療計画を説明して,その了承を求めた。被告人乙野は,滑膜肉腫やVAC療法,そこで投与される薬剤についての文献等に当たることもなく,硫酸ビンクリスチンの添付文書も読まなかった上,自らも上記プロトコールが週単位で記載されているのを見落とし,被告人丙野の上記治療計画を了承した。
同月20日ころ,被告人丙野は,医局で,被告人甲野に,被害者に対してVAC療法を行いたい旨報告し,被告人甲野はこれを了承した。被告人甲野は,被告人丙野に対し,VAC療法を行うこととした根拠について説明を求めず,具体的な治療計画や同被告人の投与薬剤の副作用についての知識を確認するなどしていない。
5 VAC療法とは,横紋筋肉腫に対する効果的な化学療法と認められているもので,硫酸ビンクリスチン,アクチノマイシンD,シクロフォスファミドの3剤を投与するものである。
硫酸ビンクリスチンの用法・用量,副作用,その他の特記事項は,硫酸ビンクリスチン(商品名「オンコビン」)の添付文書に記載されているとおりであり,用法・用量として通常,成人0.02~0.05mg/kgを週1回静脈注射する,ただし,副作用を避けるため,1回量2mgを超えないものとするとされ,重要な基本的事項として骨髄機能抑制等の重篤な副作用が起こることがあるので,頻回に臨床検査(血液検査,肝機能・腎機能検査等)を行うなど,患者の状態を十分に観察すること,異常が認められた場合には,減量,休薬等の適切な処置を行うこととされ,本剤の過量投与により,重篤又は致死的な結果をもたらすとの報告があるとされている。また,文献においても,その用法,用量について,最大量2ミリグラムを週1回,ないしはそれ以上の間隔をおいて投与するものとされ,硫酸ビンクリスチンの過剰投与によって致死的な結果が生じた旨の医療過誤報告が少なからずなされていた。
6 同月26日,被告人丙野は,「医師注射指示伝票(入院)」を作成するなどして,被害者に硫酸ビンクリスチン2ミリグラムを同月27日から同年10月8日まで12日間連日投与するよう指示するなどした。
同年9月27田上記指示どおり,被告人丙野や研修医らによって,被害者への硫酸ビンクリスチン2ミリグラムの連日投与が開始された。同日,同被告人は,看護師から硫酸ビンクリスチン等の使用薬剤の医薬品添付文書の写を受け取ったが,被害者の診療録に綴っただけで,読まなかった。
同月28日のカンファレンスで,被告人丙野は被害者にVAC療法を行っている旨報告したが,具体的な治療計画は示されず,上記治療計画に反対する医師はいなかった。
7 同年10月3日までの7日間,被害者に硫酸ビンクリスチン2ミリグラムが連日投与され,同月2日には,被害者は,起き上がれない,全身倦怠感,関節痛,手指のしびれ,口腔内痛,咽頭痛,摂食不良,顔色不良,体温38.2度と認められ,同月3日には,強度の倦怠感,手のしびれ,トイレは車椅子で誘導,口内の荒れ,咽頭痛,前頚部に点状出血などが認められ,血液検査の結果,血小板が急激に大幅に減少していることが判明し,被告人丙野の判断で,同日,血小板が輸血され,硫酸ビンクリスチンの投与は一時中止された。
8 被告人甲野は,同年9月28日,教授回診の際,被害者を診察し,同年10月初め,被害者が車椅子に乗っているのを見,抗がん剤の副作用で身体が弱ってきたと思った。被害者が個室に移ったころ,被害者の様子を見,重篤な状態に陥っていることを知ったが,硫酸ビンクリスチンの過剰投与によるものとは思い至らなかった。同被告人は,この間,診療録を確認するなどの措置をとっていない。
9 同年10月6日夕方,被告人乙野,同丙野,乙山医師が,被告人丙野か依拠したプロトコールを再検討した結果,週単位を日単位と間違えて硫酸ビンクリスチンを過剰に投与していたことが判明した。
被害者は,同月7日午後1時35分,硫酸ビンクリスチンの過剰投与による多臓器不全により死亡した。
第3 検討
1 本件では主治医である被告人丙野がプロトコールを読み間違えて抗がん剤を過剰投与し,指導医である被告人乙野,〇〇長である被告人甲野がこれを看過したため,被害者の死亡に至ったことが明らかであり,主治医である被告人丙野に業務上過失致死罪が成立することに疑間の余地はない。
本件のように主治医が医療過誤を犯し,その刑事責任を問われる場合に,科長の職にある被告人甲野にどのような注意義務が存するかについて検討する。
本来医療行為は,身体への侵襲を伴うことから有資格者である医師,看護師らがこれを行うこととされ,無資格者がこれを行うことは犯罪として禁圧されている。医師免許は,一定の教育を受けた者が国家試験に合格してはじめて付与されるものであって,高度の専門性を有している。したがって,主治医を監督する立場にある科長は,主治医が一定の医療水準を保持するように指導,監督すれば足り,部下の医師の行う具体的診療行為の全てについて,逐一具体的に確認し,監視する義務まで負うものではなく,仮に主治医が医療過誤を犯しても,その刑事責任を問われないのが原則である。
しかしながら,本件のように難治性の極めて稀な病気に罹患した患者に対し,有効な治療方法が確立していない場合には,同様に解することはできない。このような場合には,医療行為に従事する者は,症例を検討し,適切な治療方法を選択すべきであって,この責任を放擲して主治医に全責任を負わせることは許されない。殊に,本件のように,がん患者に対し,化学療法を用いる場合には,もともと抗がん剤は副作用が強く,個人差も大きく専門知識と経験が強く要求されているのであるから,尚更である。被告人甲野も含め,当時,本センター耳鼻咽喉科には,滑膜肉腫の臨床経験を有する医師はおらず,当然その治療方法についても十分な知識を有していなかったのであるから,被告人甲野は,自ら滑膜肉腫という病気の病態,予後,治療方法を十分検討し,主治医,指導医らにも同様の検討を行うよう指導し,治療方法を選定すべきであったのに,これを怠り,主治医である被告人丙野の誤った治療計画に漫然と承諾を与え,その誤りを是正しなかったのであるから,刑事責任を問われるべきものである。換言すれば,科長たる被告人甲野としては,一般的な診療と同様に主治医の被告人丙野やチームリーダーたる同乙野に任せることなく,滑膜肉腫及びVAC療法についての文献等の調査を通じて,その内容を十分理解し,そこで投与される硫酸ビンクリスチンについても,同様の調査を通じ,また,医薬品添付文書を熟読して,その用法,用量を理解し,副作用についても,その発現の仕方やこれに対する適切な対応を十分把握した上,主治医の被告人丙野が立てた治療計画について,その適否を具体的に検証し,同被告人の投与薬剤の副作用についての知識を確認するなどして,副作用に対する対応についても適切に指導すベきであった。
なお,被告人甲野は,本件症例及び治療方法について熟知していたと供述するが,関係者の供述や同被告人の当時の言動に照らし,信用できず,同被告人の供述は,上記認定を揺るがすものとはいえない。
弁護人は,〇〇としての業務内容,量等に照らすと,チーム医療の態勢下で主治医らの行う個別具体的治療行為について,逐一監督することは不可能であり,また,被告人丙野の本件過失行為を予見することは不可能であるから,被告人甲野は刑責を負わないと主張する。
しかし,被告人甲野は,自ら本件治療計画を具体的に検討していない上,カンファレンスを主宰し,9月28日教授回診を行い,また,いつでも被害者の診療録を見得る状況にあったのであるから,同被告人に注意義務を課しても,不可能を強いるものではない。また,同被告人は,自己に課された注意義務を果たしていないのであるから,被告人丙野の過失行為の予見可能性の有無を論ずる必要はない。
(法令の適用)
被告人3名の判示各所為は,いずれも刑法211条前段(平成13年法律第138号により2項が追加されたたや,現在では211条1項前段という。)に該当するところ,各所定刑中,被告人甲野及び被告人乙野については罰金刑を,被告人丙野については禁錮刑をそれぞれ選択し,その所定刑期及び金額の範囲内で被告人甲野を罰金20万円に,被告人乙野を罰金30万円に,被告人丙野を禁錮2年に各処し,被告人甲野及び被告人乙野においてその罰金を完納することができないときは,同法18条により金5000円を1日に換算した期間,当該被告人を労役場に留置し,被告人丙野に対し,情状により同法25条1項を適用して,この裁判確定の日から3年間その刑の執行を猶予することとする。
(量刑の理由)
本件は,〇〇センターにおける医療過誤に係る業務上過失致死の事案である。
同センター耳鼻咽喉科において,主治医である被告人丙野が右顎下部の悪性軟部腫瘍の一種である滑膜肉腫に罹患した被害者に対し,抗がん剤である硫酸ビンクリスチン,アクチノマイシンD及びシクロホスファミドの3剤を投与する化学療法であるVAC療法を実施するに当たり,2ミリグラムを限度に週1回の間隔で投与すべき硫酸ビンクリスチンを12日間連日投与するという誤った治療計画を立て,指導医である被告人乙野,科長である被告人甲野がこれを看過し,計画に従って被害者に1日当たり2ミリグラムの硫酸ビンクリスチンを7日間にわたって連日投与し,投与開始4, 5日後には,被害者に同剤による高度な副作用が出始めていたのに,これに対して適切な対応をとらなかったため,多臓器不全により被害者を死亡させたというものである。
このように,本件は,医師としては弁明の余地のない医療過誤事件であり,被害者の死亡という取り返しのつかない重大な結果を生じさせている。
被告人らは,滑膜肉腫やVAC療法の臨床経験がなく,抗がん剤は細胞を破壊する作用を有するもので,その投与は患者の身体に対する高度な侵襲であることから,その用法,用量を誤ると患者の命にも関わる事態となり,また,強い副作用があることから,これを用いるに当たっては,当該療法についての文献,医薬品添付文書等を調査して,その内容を十分理解し,副作用についても,その発現の仕方やこれに対する適切な対応を十分把握して治療に臨むべきであったのに,これを怠り,プロトコールを読み誤り,投与開飴4, 5日後には,同女に同剤による高度な副作用が出始めていたのに,副作用についても理解が十分でなかったことから,これに対して適切な対応をとらなかったものである。
被告人丙野は,主治医として症例,治療方法の検討を行うべきは,医師として当然のことであるのに,これを怠り,プロトコールに安易に依拠した上,これを見誤るという重大な誤りを犯し,その後も医薬品添付文書も見ず,化学療法の危険性に対する十分な認識もないまま,漫然と治療を続行したものであり,医師としての基本的素養を欠いているものといえ,関与者中その責任は最も重い。
次に被告人乙野は,被告人丙野が立てた誤った治療計画をそのまま是認し,その後も,被害者の治療を同被告人に任せ切りで,副作用に対する対応についても適切に指導しなかったもので,チームのリーダーたる医師としての自覚や責任感に欠けており,被告人丙野に次いでその責任は重い。
被告人甲野は,自ら本件症例及び治療方法の検討を行わず,被告人丙野の治療計画を具体的に吟味することなく了解を与えており,指導者としての資質に問題がある。
被告人甲野は,当公判廷では,被告人丙野に滑膜肉腫に係る文献の写を渡すなどしており,科長としてやるべきことはやったと思うと供述し,責任を部下に転嫁する態度に終始し,真摯な反省の情は認め難い。
本件過剰投与判明後,被告人らのとった行動は,インフォームド・コンセントとは全く反する自己保身のための責任逃れであり,医師としての気位いも感じられない。
被害者は,当時〇〇歳の〇〇で,将来に希望を持ち,病気の治療にも前向きに取り組んでいたのに,硫酸ビンクリスチンを過剰に投与されたため,重篤な副作用が生じ,甚だしい苦痛の中で死を迎えたもので,悲惨というほかはなく,その無念さは察するに余りある。両親は,被告人らを医師として信頼し,愛する娘の治療を任せたのに,上記のとおりの初歩的なミスによりその命を奪われた上,被告人らの事後の不適切な対応により,一層神経を逆なでされたこともあり,処罰感情は峻烈であり,医療に対する不信感を募らせるなど,不幸な結果をもたらしている。
本件は,大学病院という地域医療の中核機関において,科長以下の医師が信じ難い初歩的ミスを犯し,患者を死亡させた事件として,大学病院に対する信頼を大きく揺るがしており,その社会的影響も大きい。
他方,被告人らと遺族との間では,本件医療過誤について損害賠償請求訴訟が係属中であり,その民事責任の有無は,同裁判で結着が図られること,被告人乙野及び同丙野は,犯行を素直に認め,それなりに反省の情を示していること,被告人甲野には,道路交通法違反罪による罰金前科のほかには前科がなく,被告人乙野及び同丙野には前科前歴がないこと,被告人丙野は既に大学を懲戒解雇になっていることなど,被告人らそれぞれにとって酌むべき事情もある。
以上に加え,医療行為は, 医師等医療従事者の専権行為とされており,殊に医師は,その指導的立場から医療行為の決定者として重い責任を負い,高い職業倫理と厳しい自己練磨が求められる職業であり,その使命を果たすことにより国民の健康な生活が確保されているのである。刑法上,医療行為は,正当業務行為とされており,医療過誤が生じた場合も,その再発防止は第一次的には,医師が負うべきであって,過誤の生じた原因の解明及び再発防止の方法に努めるべきものである。医療過誤を犯した医師の刑事責任の追及は,再発防止の手段としては副次的なものであって,謙抑的であるべきである。そうでなければ,刑責の威嚇は,医療従事者に対し,萎縮効果を生じかねず,結局国民の健康な生活の確保が図れないことにもなりかねない。そうすると,医療過誤の刑責は,主として主治医が負うべきであり,主治医である被告人丙野に対しては,禁錮刑を選択し,主治医を監督すべき立場にある医師に対する刑責は,主治医に比し,格段低いと解されるので,被告人乙野及び被告人甲野に対しては,罰金刑を選択するのが相当である(勿論,医道上の責任の軽重は別論である。)。
よって,主文のとおり判決する。