大阪高等裁判所判決 令和2年(ネ)第1300号
主 文
1 一審原告の控訴を棄却する。
2 一審原告の当審における拡張請求及び予備的請求をいずれも棄却する。
3 一審被告の控訴に基づき,原判決中一審被告に関する部分を次のとおり変更する。
(1)一審被告は,一審原告に対し,559万6400円及びこれに対する平成27年4月22日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(2)一審原告の一審被告に対するその余の請求を棄却する。
4 一審原告と一審被告の間の訴訟費用は,第1,2審を通じ,これを5分し,その4を一審原告の負担とし,その余を一審被告の負担とする。
5 この判決は,第3項(1)に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
1 一審原告
(1)原判決中一審被告に関する部分のうち一審原告敗訴部分を取り消す。
(2)上記の部分につき,一審被告は,一審原告に対し,1120万円及びこれに対する平成27年4月20日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(3)一審被告は,一審原告に対し,634万1040円及びこれに対する平成27年4月20日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え(当審における拡張請求)。
(4)一審被告は,一審原告に対し,令和2年5月から令和18年1月まで毎月末日限り6万円を支払え(前記(2)及び(3)の元本合計額のうち養育費相当額1134万円に関する予備的請求)。
(5)訴訟費用は第1,2審とも一審被告の負担とする。
(6)仮執行宣言
2 一審被告
(1)原判決中一審被告敗訴部分を取り消す。
(2)上記の部分につき,一審原告の請求を棄却する。
(3)一審原告の当審における拡張請求及び予備的請求をいずれも棄却する。
(4)訴訟費用は第1,2審とも一審原告の負担とする。
第2 事案の概要
以下で使用する略称は,特に断らない限り,原判決の例による。
1 一審原告の請求と訴訟の経過
本件は,一審被告が,不妊治療を受けていた診療所(本件クリニック)に,当時の夫であった一審原告の精子で体外受精させた卵子を培養した胚(胚盤胞)を凍結保存しておき,後に当該診療所においてその胚を融解して移植を受ける方法により妊娠し,出産したことについて,一審原告が,一審被告は,一審原告の同意書を偽造して当該胚移植(本件移植)を受け,また,本件クリニックを経営する法人及びその代表者である医師は,一審原告の意思を確認せずに本件移植を行い,一審原告の権利を侵害したと主張して,一審被告,当該法人及び当該医師に対し,共同不法行為に基づき,損害賠償金2000万円及びこれに対する不法行為の日であるとする平成27年4月20日から支払済みまで民法(平成29年法律第44号による改正前のもの。以下同じ。)所定の年5分の割合による遅延損害金の連帯支払を求めて訴えを提起した事案である。
原審は,一審被告に対する請求を880万円(慰謝料800万円と弁護士費用80万円)及びこれに対する平成27年4月20日以降の遅延損害金の支払を求める限度で認容し,その余を棄却し,当該法人及び当該医師に対する請求をいずれも棄却した。
これに対し,一審原告がその敗訴部分のうち一審被告に関するものを不服として,一審被告がその敗訴部分を不服として,それぞれ控訴した。そして,一審原告は,当審において請求を拡張し,一審被告に対し,① 原判決請求認容額を含めて損害賠償金2634万1040円及びこれに対する平成27年4月20日から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金の支払を求め,また,② 上記2634万1040円のうち1134万円(本件子の将来の養育費相当額)について,予備的に,令和2年5月から令和18年1月まで毎月末日限り6万円ずつの定期金による賠償とすることを求めている。
2 前提事実
次のとおり補正するほか,原判決2頁16行目から5頁19行目までに記載のとおりであるから,これを引用する。
(原判決の補正)
(1)原判決3頁5行目から10行目までを次のとおり改める。
「(2)体外受精と融解胚移植
本件クリニックが一審原告と一審被告との関係で行った体外受精及び融解胚移植の概要は次のとおりである。① 一審原告の精子と一審被告の卵子をそれぞれ個別に体外に採取し,② 卵子を採取してから数時間以内に精子と卵子を1つのシャーレ内に入れ,自然に受精するのを待ち(体外受精),③ 受精卵を培養し,④ 5日目の胚盤胞まで育ったところで凍結保存し,⑤ その後,凍結しておいた胚盤胞を融解して一審被告に移植し(融解胚移植),⑥ 妊娠させる,というものである。なお,後記のとおり,一審原告と一審被告は『体外受精・顕微授精に関する同意書』を作成しているが,本件において顕微授精は行われていない。」
(2)原判決5頁1行目の見出しを「一審原告と一審被告の間の離婚をめぐる裁判手続」に改める。
(3)原判決5頁15行目から19行目までを次のとおり改める。
「イ 上記判決に対して一審被告が控訴し,令和元年8月20日,大阪高等裁判所において,和解(以下「別件和解」という。)が成立した。別件和解においても,上記判決と同じく,一審被告が一審原告に対し財産分与として374万1849円を支払う義務があるとされ,その際,この金額は,一審被告が一審原告に財産分与すべき本来の金額から本件子の養育費(月額6万円)を含む平成28年11月から平成29年11月までの婚姻費用124万円を控除したものであることが確認されている。そして,一審被告は,別件和解で定められた期限までに上記374万1849円のうち330万円を支払えば残額の支払義務を免除されると定められ,一審被告は当該期限までに330万円を一審原告に支払った。(甲47,48,丙32)」
(4)原判決5頁19行目末尾の次に,改行の上,次のとおり加える。
「(5)一審原告と本件子の間の親子関係をめぐる裁判手続
一審原告は,本件子を相手取り,平成28年○○○に嫡出否認請求訴訟を,平成29年○○○に親子関係不存在確認訴訟をそれぞれ提起し,両事件は併合審理された(以下「別件人事訴訟」という。)。大阪家庭裁判所は,令和元年○○○,親子関係不存在確認請求に係る訴えを却下し,嫡出否認請求を棄却する判決を言い渡し,この判決は確定した。(丙30,31)」
3 争点
(1)一審被告の不法行為の成否
(2)損害額
4 争点に関する当事者の主張
(1)一審被告の不法行為の成否
次のとおり補正するほか,原判決5頁22行目から6頁25行目までに記載のとおりであるから,これを引用する。
(原判決の補正)
原判決6頁25行目末尾の次に,改行の上,次のとおり加える。
「ウ 一審被告に過失がないこと
一審原告は,凍結胚が移植される段階でそれを断れば,一審被告が妊娠に至るはずがないと確信し,それまでの間は移植に対する同意を装っていたことを認めている。一審被告は一審原告の同意があると信じ,本件署名をしたのであり,一審被告に過失はない。
エ 一審被告が一審原告の自己決定権を侵害していないこと
一審原告は,別居2日前に精子を提供して体外受精に協力し,その後一審被告が不妊治療に臨んでいることを何度も確認していたから,自ら本件クリニックに連絡し,治療の中止を求めることが容易にできた。しかし,一審原告はそれを行わず,一審被告に対し治療の中止を求めたこともない。
別件人事訴訟の判決においても,一審原告は,『本件同意書1に基づく体外受精,受精卵(胚)の凍結保存及び凍結保存受精卵(胚)移植に同意したと認められる。』『本件移植については,原告個別の明示的な同意があったとはいえないが,原告の意思に基づくものということができる』と判断されており,この判決は,一審原告が控訴せず,確定した。
以上から,一審被告が一審原告の自己決定権を侵害したとはいえない。」
(2)損害額
【一審原告の主張】
一審被告が本件同意書2に一審原告の署名を偽造して本件クリニックに提出し,融解胚移植を受け,本件子を出産したという不法行為により一審原告が被った損害は,次のとおりである。
ア 本件子の養育費相当額(既払分) 78万円
別件和解において,一審被告は一審原告に対し財産分与として金銭を支払うべきものとされたが,その金額は,本来財産分与すべき金額から本件子の養育費月額6万円の13か月分(平成28年11月から平成29年11月まで)を含んだ婚姻費用を控除したものであることが確認されている。したがって,一審原告は一審被告に対し本件子の養育費78万円を支払済みである。
一審被告の不法行為がなければ一審原告がこの養育費を支払うことはなかったのであるから,これは前記不法行為によって一審原告に生じた損害である。
イ 本件子の養育費相当額(未払分) 1308万円
一審被告は本件子の法定代理人として,一審原告に対し,将来にわたって養育費月額6万円を支払うよう請求してきており,このことからすると,平成29年12月から本件子が満20歳に達する令和18年1月まで(218か月分)の養育費合計1308万円についても,一審被告の不法行為による損害となる。
上記1308万円のうち一審原告が予備的請求の申立書を提出した令和5年5月以降の1134万円については,同申立書提出時を基準にすれば将来の給付の訴えとなり,その時点では損害が発生しているとは認められないと判断されるとしても,将来にわたって毎月発生する損害であるから,令和18年1月まで毎月,月額6万円の支払請求が認められるべきである(予備的請求)。
ウ 慰謝料 1000万円
(前記ア及びイが損害と認められない場合は,2386万円)
(ア)一審被告の不法行為は,一審原告の自己決定権ないし人格権を侵害したばかりでなく,離婚事由にも該当する。また,一審被告のその後の行動は,一審原告を金づるのように考えているものとしか思えず,そのため,一審原告は本件子を介した一審被告からの請求を恐れ,父が平成30年11月に死亡した際,何も相続することができなかった。本件子の遺留分侵害額の限度で,一審原告の遺言の自由が制限されることになったし,仮に一審原告が将来子を持つことになれば,その法定相続分も制限される。このような結果は重大で,一審原告は多大かつ持続的な精神的苦痛を受けているから,慰謝料額は1000万円である。
(イ)仮に,前記ア及びイの養育費相当額の損害が一審被告の不法行為による損害とは認められないと判断される場合,その合計額1386万円は,上記(ア)の慰謝料とは別途の慰謝料として認められるべきである。
エ DNA鑑定費用 8万6400円
別件人事訴訟において,一審原告と本件子の親子関係についてDNA鑑定が行われ,その費用8万6400万円は一審原告が負担することが確定した。一審被告の不法行為がなければ別件人事訴訟自体が存在せず,このような費用負担は生じなかったのであるから,これも当該不法行為による損害である。
オ 弁護士費用 239万4640円
カ 合計 2634万1040円
前記イのうち令和2年5月分以降の養育費相当額1134万円の請求は,一部請求である。
【一審被告の主張】
ア 養育費相当額について
一審原告と本件子の親子関係は別件人事訴訟の判決により確定している。養育費は子の生活を支えるものであり,その支払を受けるのは子の権利である。その養育費を支払ったことないし支払うことを,子の親権者である母から被った損害として考慮することは,養育費の趣旨に反し,不当である。一審原告の慰謝料の額を算定する際にこの点を考慮することも許されない。
イ 慰謝料について
一審原告は本件子に会ったこともなく,その養育に関わったこともなく,精神的苦痛を訴えているのみである。友人と酒を飲み「楽しいよー」などとSNS上でコメントし,独身時代と何変わらぬ自由な生活を送っている。一方,一審被告は,母子家庭で幼い子を育てながら生活している。800万円の慰謝料を認定した原判決は不合理である。
第3 当裁判所の判断
1 認定事実
次のとおり補正するほか,原判決11頁6行目から20頁20行目までに記載のとおりであるから,これを引用する。
(原判決の補正)
(1)原判決13頁22行目冒頭の前に「当時既に一審原告は一審被告に対し,自分が本件居宅を出て別居したいと告げ,その方向で話が進んでおり,」を加える。
(2)原判決14頁14行目の「受精卵」の次に「(胚盤胞)」を加える。
(3)原判決14頁25,26行目の「腹腔鏡併用子宮鏡下中隔切除の手術」の前に「不妊や流産になり得る要因を除去するため,」を加える。
(4)原判決15頁4行目の「内示」から5行目の「同日」までを「内示を受け」に改める。
(5)原判決15頁7行目の「単身赴任」の前に「その後しばらくして,」を加える。
(6)原判決15頁10行目の「同月」を「同年10月」に改める。
(7)原判決15頁21行目の「受けた。」から22行目末尾までを「受けたが,その後,バセドウ病と診断され,経過観察となった。(以上につき,乙6〔49,57~59頁〕,丙14)」と改める。
(8)原判決16頁11行目の「それぞれの」の前に「大阪府内にある」を加える。
2 争点(1)(不法行為の成否)
以下,前記第2の2において補正した上で引用した原判決「事実及び理由」第2の2の事実を「前提事実」,前記1において補正した上で引用した同第3の1の事実を「認定事実」として引用する。
(1)不法行為の成否について(当裁判所の判断)
ア 不妊治療と出産に至る経緯
前提事実及び認定事実によれば,一審被告が本件子を出産するに至った経緯とこれについての一審原告の認識は次のとおりである。夫婦であった一審原告と一審被告は,不妊治療として,本件クリニックにおいて体外受精の手続を進めることとし,本件クリニックは,平成26年4月10日,一審原告から精子の,一審被告から卵子の提供を受け,これを受精させ,培養して胚盤胞まで育ったところで凍結保存した。一審被告は,平成27年4月,本件クリニックにおいて凍結胚の移植を受けることとし,同月20日,本件同意書2の妻氏名欄に自署するとともに夫氏名欄に一審原告の氏名を記入し(本件署名),同月22日,これを本件クリニックに提出して本件移植を受けた。その結果,一審被告は妊娠し,本件子を出産した。他方,一審原告は,平成26年4月12日に東京都内の本件居宅を出て一審被告と別居し,同年10月には大阪に移り住み,一審被告と頻繁にやり取りをすることもなかった。一審原告は,一審被告が本件移植を受けることを事前に知らされておらず,本件同意書2に一審被告が本件署名をしたことも知らず,一審被告が妊娠した後になって初めて,本件移植があったことを知った。本件クリニックは,本件署名のある本件同意書2が提出されたからこそ本件移植を行ったのであり,その提出がなければ,本件移植は行われず,本件子が出生することもなかった。
イ 自分の子をもうけるか否かについての自己決定権とその侵害
個人は,人格権の一内容を構成するものとして,子をもうけるか否か,もうけるとして,いつ,誰との間でもうけるかを自分で決めることのできる権利,すなわち子をもうけることについての自己決定権を有すると解される。
一審原告は,妻である一審被告とともに体外受精の手続を進めていたのであるから,自らの精子を本件クリニックに提供した平成26年4月10日の時点では,近い将来に一審被告との間で子をもうける蓋然性があることを十分に認識していたと認められる。もっとも,本件移植が行われるまでの約1年の間,一審原告は,本件クリニックに対し,凍結保存受精卵(胚)を一審被告に移植しないよう求めたことはないものの,問い合わせすらしていない。少なくとも,一審被告に対し,凍結保存受精卵(胚)の移植について,積極的な同意を明示した事実があったとは認められない。
ところで,一審被告が本件子を出産したのは本件移植を受けたからであるところ,本件移植を受けるためには夫である一審原告の明示的な同意が必要であったことは,本件同意書2に夫の署名欄が設けてあったことから明らかである。本件同意書2は一審原告・一審被告夫婦と本件クリニックとの間で取り交わされるものであるけれども,夫婦の間においても,子をもうけるか否か,もうけるとしていつもうけるかは,各人のその後の人生に関わる重大事項であるから,一審被告の立場からしても,平成26年4月12日の別居以降,子をもうけることについて一審原告が積極的な態度を示していなかった経緯を踏まえれば,本件移植を受けるに先立ち,改めて一審原告の同意を得る必要があったことは明らかであったといえる。ところが,一審被告は,一審原告の意思を確認することなく,無断で本件同意書2に本件署名をして本件クリニックに提出し,本件移植を受けたのであるから,一審被告のこの一連の行為は,一審原告の自己決定権を侵害する不法行為(以下「本件不法行為」という。)に当たるというべきである。そして,本件不法行為のあった日は,一審被告が本件同意書2を本件クリニックに提出して本件移植を受けた平成27年4月22日である。
(2)一審被告の主張について
ア 一審被告は,本件署名は偽造ではなく,一審原告の同意に基づくものであり,仮にそうでないとしても,一審被告は一審原告の同意があると信じていたから過失はないと主張する。
しかし,前記(1)のとおり,一審被告が,平成27年4月22日,本件クリニックにおいて本件移植を受けるに当たり,一審原告が,一審被告に対し明示的に同意した事実を認めることはできない。
また,一審原告と一審被告は,夫婦関係が良好でなかったために別居することとなり,その後,両者の関係が改善に向かっていたとはいえなかった上,一審原告は,一審被告に対し,平成26年12月20日の時点で,不妊治療について積極的でない態度を明確に示していた。これに加え,認定事実(3),(4)のとおり,一審被告の妊娠後,その連絡を受けた一審原告は一貫して拒否的な反応を示したこと,一審被告が一審原告の母親に対する手紙において「何度もこんなまま移植すべきでない事も考えました」と記載し,一審原告に対するLINEメッセージにおいても「同意書は遠方であっても一審原告に署名してもらうべきであったことは分かっていたが,一刻を争う移植に際してそこまではできなかった」と記載していることからすると,本件移植の時点において,一審原告がこれに同意していなかったことは明らかである上,一審被告は,一審原告が同意していないことを認識し,少なくとも容易に認識し得たものと認められる。したがって,一審被告の前記主張はいずれも理由がない。
イ 一審被告は,本件クリニックに対しても一審被告に対しても一審原告が不妊治療の中止を求めなかったことなどからすれば,本件移植は一審原告の自己決定権を侵害したとはいえないと主張する。
しかし,前記のとおり,一審被告が本件移植をした時点で,一審原告が本件移植に同意していなかったと認められる以上,一審原告の自己決定権の侵害を否定することはできない。一審被告が指摘する点は,その損害である慰謝料の認定の際に考慮し得るにとどまるというべきである。したがって,一審被告のこの主張も理由がない。
3 争点(2)(損害額)
(1)本件子の養育費相当額(既払分) 0円
一審原告は,平成28年11月分から平成29年11月分までの本件子の養育費として78万円を一審被告に支払ったが,この支払済みの養育費相当額は本件不法行為による損害であると主張する。
しかし,一審原告も自認しているとおり,上記養育費は,一審原告と一審被告との間で成立した別件和解において,財産分与の清算をするに当たり,これを支払済みとすることが確認されたものである(前提事実(4)イ)。したがって,この養育費は,一審原告が自らの意思により支払ったものであるから,本件不法行為による損害と認めることはできない。
(2)本件子の養育費相当額(未払分) 0円
一審原告と本件子の間には親子関係があるが,一審原告が負担すべき本件子の養育費については,前記(1)の既払分を除いて,まだ何も定められていない。この問題は一審原告と本件子又は一審被告との間において別途解決されるべきことであり,これが確定していない以上,上記養育費相当額を本件不法行為による損害と認めることはできない。
(3)慰謝料 500万円
本件不法行為によって,一審原告は,子をもうけることについての自己決定権を侵害され,この結果,一審原告と本件子との間に親子関係が発生した。また,一審原告と一審被告が離婚するに至った経緯(認定事実(4))を踏まえれば,本件不法行為が婚姻を破綻させる決定的な要因であったと認められるから,一審原告は本件不法行為によって離婚を余儀なくされたということができる。これらの事情に加え,一審原告と本件子との関係が今後も継続することを考慮すれば,本件不法行為によって多大な精神的苦痛を受けたという一審原告の主張は正当である。
他方,本件不法行為に関係する事情として次の事実が挙げられる。一審原告は一審被告とともに体外受精の手続を進め,自ら精子を提供しており,凍結保存受精卵(胚)の移植により一審被告が妊娠する蓋然性のあることを認識していた。精子提供の直後に一審被告と別居したが,一審被告がその後,不妊や流産になり得る要因を除去するために子宮の手術を受けるなど移植に向けた積極的な姿勢を堅持していることを認識しており,特に平成26年12月20日には,移植の時期が平成27年2月か3月頃になりそうであるという具体的なスケジュールまで一審被告から告げられている(認定事実(2)キ)。それにもかかわらず,一審原告は一審被告に対し,移植を拒否する意思を表明しておらず,本件クリニックに対する問い合わせすらしていない。本件クリニックに一審原告が問い合わせをしていれば本件移植が行われることはなかったと考えられるから,この事実は重要である。
以上に指摘した点に加え,本件の事実関係を総合的に考慮し,本件不法行為によって生じた一審原告の慰謝料の額を500万円と認定する。
なお,本件子の養育費は,前記(2)において説示したとおり,一審原告と本件子又は一審被告との間で別途解決されるべき問題であるから,慰謝料の認定に当たってこれに関する事情は考慮の対象にしない。養育費相当額が損害と認められない場合にはこれを慰謝料として認定すべきであるとの一審原告の主張も採用できない。
(4)DNA鑑定費用 8万6400円
証拠(甲48,丙30)及び弁論の全趣旨によれば,別件人事訴訟において一審原告と本件子との父子関係に関するDNA鑑定が行われ,その費用の8万6400円は一審原告が支払義務を負うことが確定したと認められる。本件不法行為がなければ本件子は出生せず,その親子関係が争われることもなく,DNA鑑定が必要とされることもなかったといえるから,このDNA鑑定費用相当額は本件不法行為による損害と認められる。
(5)弁護士費用 51万円
慰謝料とDNA鑑定費用相当額を合わせると508万6400円であり,本件事案の難易,請求額,認容された額その他諸般の事情を斟酌すると,弁護士費用は51万円とするのが相当である。
(6)賠償額合計 559万6400円
4 結論
以上によれば,一審原告は一審被告に対し,不法行為に基づき,損害賠償金559万6400円及びこれに対する不法行為の日である平成27年4月22日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金を請求することができる。一審原告の一審被告に対する請求はこの限度で理由があり,その余は理由がない。原判決中一審被告に関する部分は,この結論に反する限度で不当である。したがって,一審原告の控訴,当審における拡張請求及び予備的請求はいずれも理由がないから棄却し,一審被告の控訴は上記の限度で理由があるから,一審被告の控訴に基づき原判決を変更することとして,主文のとおり判決する。
大阪高等裁判所第8民事部
裁判長裁判官 山田陽三
裁判官 倉地康弘
裁判官 池町知佐子